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しのぎを削る列強

アメリカ南北戦争

あらすじ

big5
「さて、今回のテーマはアメリカ南北戦争(American Civil War アメリカではThe Civil War)ですね。独立から約70年、広大な領土を治めるようになったアメリカ合衆国では、北部と南部で奴隷制や貿易システムに関する対立が深まり、ついに北部と南部に分かれての内戦になりました。」
名もなきOL
「南北戦争で、リンカーンが奴隷解放宣言を出したんですよね。」
big5
「そのとおりです。奴隷制度の問題が南北戦争の大きな原因になりました。さて、まずはいつもどおり、あらすじから見ていきましょうか。」

Battle of Franklin by Kurz & Allison
南北戦争におけるフランクリンの戦い 制作者:Kurz & Allison 制作年代:1891年

big5
「当サイトでも「アメリカ独立革命」で紹介しているように、黒人奴隷の問題はアメリカ建国当初から課題として残されていました。」
名もなきOL
独立宣言では「全ての人は平等」と書いておきながら、黒人奴隷は奴隷のままにされた、という話でしたね。」
big5
「そのとおりです。その後、アメリカは先住民のインディアンの土地を奪い取り、米墨戦争(アメリカ=メキシコ戦争)でメキシコを破り、サンフランシスコやロサンゼルスなど、日本でも有名な太平洋岸の都市を含む広大な土地を切り取り、領土を拡大していきました。新しい州がアメリカ合衆国に加わるたびに、その州を奴隷制度を持つ奴隷州にするか、奴隷制を禁止する自由州にするかで揉めてきました。商工業が発展した北部は、黒人奴隷よりも労働者や消費者を増やすために奴隷制廃止を進めたいのですが、南部は主力産業である綿花の大規模栽培のために黒人奴隷が必須だったんです。
時が経ち、ストゥが著した『アンクル=トムの小屋』がベストセラーになるなど、奴隷解放の気運は高まってきました。しかし、南部を支持基盤とする民主党政権はカンザス・ネブラスカ法を成立させ、
「新規加入の州が自由州か奴隷州になるかは、連邦政府が決めることではなく、その州の住民が決める」
として、奴隷州を増やす政策を進めました。これに反発した奴隷制反対派は共和党を結成。南北対立は次第に緊迫していきます。そんな中、1860年11月の選挙で共和党のリンカン(昔はリンカーンと書くことが多かったが、今はリンカンが多い。)が大統領選に勝利すると、南部はリンカン大統領を認めずにアメリカ合衆国から離脱してアメリカ連合国を結成しました。一時的にアメリカが北と南に分裂したわけですね。
離脱したアメリカ連合国(南軍)は、1861年にアメリカ合衆国(北軍)のサムター要塞を攻撃したことで、南北戦争の火ぶたが切られました。当初、数も質も劣るはずの南軍が優勢となりました。リンカンは、西部農民の支持を得るためにホームステッド法を制定し、1863年1月1日には奴隷解放宣言を出して北軍の正統性を内外に示します。7月にゲティスバーグの戦いで北軍が勝利すると、形勢は北軍有利となりました。南軍は抗戦を続けますが、1865年にアメリカ連合国の首都・リッチモンドが陥落。足掛け4年にわたる南北戦争は北軍の勝利で終結。アメリカ合衆国における黒人奴隷制は法的には廃止されることになったわけです。」

年月 イベント 世界のイベント
1820年 ミズーリ協定が成立
1848年 米墨戦争でメキシコからサンフランシスコなど広大な領土を獲得 二月革命
1852年 ストゥの『アンクル=トムの小屋』がベストセラーになる
1854年 カンザス・ネブラスカ法成立 共和党結成
1857年 アメリカ最高裁がドレッド=スコット判決を出す インド大反乱
1859年 ジョン=ブラウンの蜂起 イタリア統一戦争
1860年 11月 リンカンが大統領選挙に当選
12月 南部が離脱しアメリカ連合国を結成
1861年 アメリカ南北戦争 開戦 イタリア王国成立
1862年 ホームステッド法 施行
1863年 1月 リンカーンが奴隷解放宣言
7月 ゲティスバーグの戦いで北軍が勝利
1865年 南北戦争 終結

奴隷州と自由州のバランス

big5
「さて、ここからはもう少し詳しく南北戦争に至る経緯を見ていきましょう。
独立後のアメリカは、基本的にヨーロッパでの騒動には無関係で独自の道を進んでいきました。西には、インディアンの住処である広大な未開の土地が広がっていたので、当然のように西に領土を拡大していきました。1819年時点で、アメリカを構成するのは11の自由州と、同じく11の奴隷州でした。」
名もなきOL
「数が同じでバランスが取れていたわけですね。」
big5
「そんな中、開拓して発展したミズーリ準州(じゅんしゅう:まだ州として認められていないアメリカ合衆国の地域。現代では、グアムが準州)が州に昇格する、という話が生じました。このミズーリ州が、奴隷州になるか自由州になるかでアメリカ議会は大激論になりました。」
名もなきOL
「どちらになるかで、議会の勢力バランスが崩れるわけですからね。重要な問題ですね。」
big5
「激論の結果、時の第5代大統領・モンローのもとで、以下の条件で妥協することとなりました。
1.ミズーリ準州は奴隷州として州に昇格させる。
2.マサチューセッツ州からメーン州を自由州として分離独立させる。
3.今後、北緯36度30分以北に新設される州では、奴隷制度は禁止とする。
こうすることで、ミズーリ州を奴隷州とする代わりに、メーン州という小さな州を自由州とすることで、自由州12、奴隷州12にして数を合わせたわけです。これをミズーリ協定(Missouri Compromise)といいます。ただ、原語である英語と内容を考えると「ミズーリ妥協」と呼んだ方がいい気がしますね。」
名もなきOL
「あと、北緯36度30分、という境界も引かれたんですね。境界線を引けば、自由州と奴隷州の違いはハッキリしますけど、それって国を二分するきっかけにもなるんじゃないかな、と思いますね。結果論かもしれませんが。」

US Slave Free 1789-1861
アメリカ合衆国の自由州・奴隷州の変遷  Wikipediaより

big5
「実際、ジェファーソンは北緯36度30分という境界を引くことが、アメリカ合衆国の分裂につながるのではないか、と危惧した手紙を残しています。既に、この頃から自由州と奴隷州の数を同じにしてバランスを取るという、一枚岩ではないことを示していますね。
その後、テキサス併合や米墨戦争(アメリカ=メキシコ戦争)でアメリカ合衆国の領土はついに太平洋に達します。そのたびに自由州と奴隷州の問題が議論され、そして妥協が続いてきました。」

深まる南北対立

big5
「そんな中、1852年にストウが著した『アンクル=トムの小屋』(Uncle Tom's cabin)が刊行され、これが大ヒット。1年間で120版35万部が販売される、という当時一番のベストセラーになりました。著者のストウは、南部で奴隷として働かされている黒人奴隷の悲惨な現実を目の当たりにしてショックを受け、この事実を広く知らしめるためにアンクル=トムの小屋を書きました。」
名もなきOL
「この人、私が学生の頃は「ストウ夫人」って書いてたような・・・」
big5
「私の頃もそうでしたよ。当時はまだ「女性は男性に従うもの」という古い価値観の時代だったので、Mrs. Stoweを訳して「ストウ夫人」とするのが普通だったんですね。今は、Mrs. があるからといって、〜〜夫人と訳すのは男女平等の精神に反する、ということで、教科書や資料集でも単純に「ストウ」と書かれているようです。
と、やや脱線しましたが、アンクル=トムの小屋により、人道的な立場から黒人奴隷制を廃止すべき、という声が強くなっていきました。しかし、当時のアメリカ大統領は、奴隷制度で成り立っている南部を支持基盤とする民主党政権でした。彼らにとってみれば、奴隷制度の廃止は自分たちの経済の崩壊を意味しますので、認めるわけにはいきません。
1854年、アメリカ中央部のカンザス準州、ネブラスカ準州が州に昇格する、となった時に、民主党はカンザス・ネブラスカ法を制定。カンザスとネブラスカの両準州が州に昇格する時、自由州になるか奴隷州になるかは連邦議会ではなく住民が決める、としたんです。カンザスもネブラスカも、北緯36度30分以北に入りますので、ミズーリ協定に基づけば自由州になるべき場所にありました。」
名もなきOL
「それってミズーリ協定違反じゃないですか!協定に従って、カンザスもネブラスカも自由州にするべきですよ!」
big5
「そうなりますよね。奴隷制反対派の議員もそのように主張しました。この議論の中で、後に大統領となるリンカン(この時45歳)は
「建国時の指導者は明確な奴隷制廃止の意図を持っていたが、南部諸州との連合を優先して便宜的に南部での奴隷制を認めた。しかし、1787年には新たな領地で奴隷制を認めない、という北西部条令も制定されており、将来は非人道的な黒人奴隷制は廃止されるべきである。」
と主張しています。
しかし、民主党政権はカンザス・ネブラスカ法を成立させ、奴隷州の権力拡大を優先させました。これに反発する北部の奴隷制反対派は、新たな政党・共和党を結成。奴隷制度を巡る南北の対立はますます激しくなっていったんです。これが、現代アメリカの二大政党の誕生です。」
名もなきOL
「アメリカの二大政党って、奴隷制を巡る意見の違いから始まったんですね。でも、民主党って名前から考えると、人権とかにしっかりしてそうなイメージがありますが、この時点では逆で、民主党が奴隷制維持、共和党が奴隷制廃止、という対立だったんですね。意外。」
big5
「確かに、現代ではそのようなイメージですよね。民主党の基本的な考え方は「各州のことは各州で決め、連邦政府の介入は最小限に抑える」という思想があります。なので、奴隷制に関しても、奴隷が必要な南部諸州は当然維持する、という発想になっているのだと思います。ただ、カンザス・ネブラスカ法のように、ミズーリ協定を無視して奴隷州を増やそうとしているところを見ると、現状維持に留まらない、さらなる拡大を目指したのかもしれないですね。
そして、南北の決裂をますます深める事件が二つ起こりました。まずは、1857年のドレッド=スコット判決です。ドレッド=スコットとは、争点になった黒人奴隷の名前です。ドレッドは、所有者の白人とともに自由州であるイリノイ州や、ミズーリ協定で奴隷制が禁止されたミネソタ準州に住んでいたことがある、という理由で、自分は自由の身になった、と訴えた裁判です。裁判は最高裁までもつれこみ、審判は却下でした。重要なのはその理由です。最高裁が挙げた理由は以下の3つでした。
1.黒人は合衆国の市民になれない。そもそも、裁判所に訴訟を提起することができない。
2.ドレッド=スコットはミズーリ州(奴隷州)の居住者であり、イリノイ州(自由州)の法律の適用は受けられない。
3.連邦議会が合衆国の準州の奴隷制を禁止する権限を持たないので、ドレッドが北緯36度30分以北に住んだとしても、自由の身にはなれない。
というものでした。」
名もなきOL
「1は完全に人種差別発言ですね。2はわかる気もしますが、3の「連邦議会が準州の奴隷制を禁止できない」というのは、さっきbig5さんが言ってた民主党の基本思想ですね。」
big5
「最高裁も、民主党政権の政策を認めたわけですね。このような動きに対し、白人の黒人奴隷制廃止論者のジョン・ブラウン(John Brown この年59歳)が、1859年10月に自身の息子3人を含む白人と黒人の混成部隊22人を率いて武装蜂起し、ヴァージニア州の武器庫を占領する、という事件が起こりました。この事件は2日で鎮圧されるのですが、南部の離脱を予感させるような事件です。
そして1860年11月、大統領選挙が行われ、当選したのは奴隷制反対の共和党から出馬したリンカンです。この結果に納得できない南部諸州(サウスカロライナ、ミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサス)は、翌月12月にはアメリカ合衆国から離脱し、新たにアメリカ連合国を結成しました。アメリカ連合国の大統領としてジェファーソン・デヴィス(この年53歳)を立て、リンカンと決別したわけです。」

南北戦争 経緯

big5
「アメリカ連合国の成立から約4カ月がたった1861年4月12日、南軍がサムター要塞を攻撃したことで南北戦争が始まりました。戦争の詳しい経緯は割愛しますが、南北戦争はたいへん死傷者が多かった戦争でした。北軍の戦死・戦傷死者数は約11万人、南軍は約9万4000人となっており、兵士だけでも両軍合わせて約20万人以上が亡くなっています。また、当初は兵力劣勢だった南軍が優勢でした。」
名もなきOL
「どうして南軍が優勢だったんですか?」
big5
「理由の一つは、有能な将軍や士官らがアメリカ連合国に参加したから、です。特に、リー(Lee この年54歳)将軍は、アメリカ軍事史の名将と称えられるほどです。このため、リンカン大統領は北軍の将軍の一人に、イタリア王国成立の英雄・ガリバルディ(この年54歳)」を招聘しようとした、というエピソードがあるくらいです。」

Robert Edward Lee
ロバート・エドワード・リー  撮影:1864年3月

big5
「リンカンは、劣勢を覆すために2つの政策を出しました。1つ目は、1862年のホームステッド法(Homestead Act)です。ホームステッド法は、直接戦争に関係するものではありません。南北戦争前から、主に共和党が制定したかった法律だったのですが、民主党政権に否決され続けてきた法案でした。」
名もなきOL
「どんな法案なんですか?」
big5
家長あるいは21歳以上の者は男女問わず、外国人でも将来アメリカ市民となる意思表示をした者は。160エーカーの公有地が貸与され、その土地を改良して5年定住すれば、その土地を自分のものにできるというものです。貸与される土地は、西部の開拓地になります。つまり「西部開拓に貢献したら、その土地をプレゼントするよ」という、いわゆる国有地の払い下げですね。ホームステッド法により、西部開拓移民を増やして彼らの力で土地を開発して国力を増やしていく、という政策ですね。ホームステッド法により、主に西部開拓民らの支持を得ることができました。
もう一つが、たいへん有名な1863年1月1日の奴隷解放宣言です。奴隷解放宣言は、まず1862年9月に奴隷解放予備宣言を出すところから始まりました。予備宣言の内容は
「1863年1月1日までに南部諸州が連邦に復帰しなければ、黒人奴隷を解放する。」
というものでした。」
名もなきOL
「なんか、予備宣言の内容だと、離反したアメリカ連合国がリンカンに従ったら、奴隷解放はしない、というにも取れますよね。」
big5
「そうですね。ただ、この時点では既に戦争の火ぶたは切られており、リンカンがこのような宣言を出したからと言って戦争を中断して南部が復帰する、という可能性は低かったんです。実際、アメリカ連合国は合衆国に復帰しなかったので、予備宣言通り、リンカンは黒人奴隷の解放を宣言しました。2年後の1865年1月1日にアメリカ合衆国憲法修正第13条として議会で正式に可決され、ようやく黒人奴隷制は法的に廃止されることになったわけですね。」
名もなきOL
「憲法修正第〇〇条って、どういうことですか?」
big5
「これはアメリカ憲法の構成の話ですね。例えば、もし日本が憲法の一部を修正するとしたら、おそらく修正される部分を消して、新しい文言に置き換える、という形をとるのではないか、と思います。新しいものに置き換える、という方法ですね。しかし、アメリカの憲法はこのような修正方法はとりません。修正されるべき文言はそのままで残しておいたうえで、後で「憲法修正条項」という補足を加えることで修正するわけです。こうすることで、修正前の憲法の内容と、修正後の憲法の内容が同時に見えるようにしているわけですね。情報量は多くなりますが、変更の歴史がそのまま残る形式ですね。」
名もなきOL
「なるほど、面白い。このような憲法修正の方法もあるんですね。」
big5
「奴隷解放宣言により、北軍は「人道的な正義」という大義名分を得ることになりました。イギリスなどの欧州列強も、市民らが人道的な立場から北軍の正統性を支持するようになり、戦争の形勢は次第に北軍有利になってきます。
軍事面で南軍の勢いが失われてしまったのが、1863年7月のゲティスバーグの戦いです。ゲティスバーグの戦いでは、南北両軍の主力がぶつかり、南軍の総大将は名将・リー将軍でした。ゲティスバーグの戦いは、南北両軍ともに大きな犠牲を払ったのですが、北軍が辛勝します。敗れた南軍は戦力の損失が著しく、以後の戦闘は北軍に主導権を奪われることになりました。
ちなみに、ゲティスバーグの戦いの4カ月後の1863年11月19日の戦没者追悼会で、非常に有名なリンカンのセリフが生まれたのですが、OLさん、なんだと思います?」
名もなきOL
「これは知ってますよ。「人民の、人民による、人民のための政治」ですね。」
big5
「正解です。原文は"government of the people, by the people, for the people"となっています。個人的には、governmentは「政治」というよりは「政府」と訳した方がいいんじゃないか、と思うのですが、それはまた別の話ですね。
ゲティスバーグの戦いの後、北軍のグラント(Grant 1865年で43歳)将軍の指揮により、1865年3月にアメリカの首都・リッチモンドが陥落。リー将軍も4月に降伏し、南北戦争は北軍の勝利で終結しました。」
名もなきOL
「黒人奴隷がもたらした国家のひずみは相当大きかったんだ、ということがこの南北戦争に表れているんだ、と思います。」
big5
「そうですね。他者の犠牲に成り立った繁栄は、犠牲になった者たちの恨みをかっていつか破綻する、というのは古今東西共通の原理なんじゃないか、と思いますね。
さて、南北戦争の話を終える前に、一つだけ重要事件に触れておきます。リンカン暗殺です。」

The Assassination of President Lincoln - Currier and Ives
リンカン暗殺  制作者:Currier & Ives 制作年代:1865年頃

名もなきOL
「そういえば、リンカンさんは暗殺されたんですよね。いつの話でしたっけ?」
big5
「南北戦争がほぼ終結していた1865年4月14日(金)午後10時頃のことでした。首都のワシントンD.Cのフォード劇場で観劇中だったリンカンはジョン・ウィルクス・ブース(John Wilkes Booth この年27歳)に銃で撃たれ、翌朝の4月15日(土)の朝、死亡しました。犯人のブースは、熱心なアメリカ連合国の支持者でした。ブースは逃走するのですが、4月25日の夜に逃走先で軍に包囲され、銃で撃たれて翌朝26日に死亡し、他の共犯者たちは捕らえらえて絞首刑や終身刑になっています。
ちなみに、暗殺されたアメリカ大統領はリンカンが最初でした。リンカンの葬儀は国葬となり、その死は多くのアメリカ国民に悼まれたそうです。
南北戦争の原因となった黒人奴隷制は、法的には廃止されました。しかし、OLさんもご存じのように、経済的な弱者であった黒人奴隷は読み書きができない者も多く、戦後に自由民とされても、白人と同じ社会で生きていくことはほとんどできませんでした。戦後しばらく経つとアメリカ南部の州は様々な法律を使って黒人差別を合法化し、黒人差別という形でアメリカの社会問題として残ることになりました。これが、やがてキング牧師による公民権運動へと繋がっていくのですが、これはまた別の機会に。」


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参考文献・Web site